異国の地に取り残され、厳しい環境で生活し、祖国への帰国を果たした時には、30年以上の歳月が経っていました。彼らは、「中国残留孤児」などと呼ばれ、両親と共に幼くして中国に渡り、終戦末期の戦闘等で逃避行を余儀なくされ、家族と離れ離れになり、現地の養父母に育てられるなどして生き延びた人たちです。国による本格的な帰国支援事業が始まって約40年が経つ今、彼らとその家族を含め約2万人が永住帰国し、日本で暮らしています。彼らの帰国後の生活について紹介します。
終戦後中国に残された人たち
1945年(昭和20年)当時、中国の東北地方(旧満州地区)には、開拓団 など約155万人の日本人が住んでいましたが、同年8月9日の旧ソ連軍の侵攻により、多くの人々が犠牲になりました。そのなかで、肉親と離別して孤児となり中国の養父母に育てられたり、やむなく中国に残ることになった人のうち、当時概ね13歳未満で本人が自身の身元を知らない人を「中国残留孤児」、それ以外の人を「中国残留婦人等」と呼び、総称して「中国残留邦人」と言います(以下、「1世」)。また、子と孫にあたる2世・3世等の親族を含め、日本に帰国した人を「中国帰国者」と呼びます。
2万人以上が永住帰国
日本政府による1世の引揚げは1946年から開始されましたが、一時中断などもあり、帰国事業が本格的に始まったのは1972年の日中国交正常化以降です。 厚生労働省の統計資料によると、1980年代前半は残留婦人の帰国、そして1980年代後半は残留孤児の帰国がピークを迎え、さらに1990年代は残留婦人の帰国の再度のピークが見られます。本年3月31日現在、永住帰国した1世は6,646人、そして2世・3世など親族等を含めると20,786人になります。また、永住帰国時の在留資格は、「定住者」又は「日本人の配偶者等」となります。
帰国後の生活支援
日本に帰国したものの、政府による生活支援は決して十分とは言えず、さらに1世は高齢になってからの帰国になり、言葉や生活において困難に直面する人も多くいました。 そして、早期帰国の実現の義務と帰国後の自立支援義務を怠ったとして、2002年から1世らによる国家賠償訴訟が各地で起こりました。 また、厚生労働省が発表した「中国帰国者生活実態調査」(2005年3月発表)では、約52%が年金、約58%が生活保護を受給しており、帰国前の生活状況と比べ「楽になった」「やや楽になった」が約35%の一方、「苦しくなった」「やや苦しくなった」が約28%にのぼりました。 こうした動きを受け、日本政府は生活支援等の充実を図り、2008年には「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律の一部を改正する法律」が施行されました。これによって同年4月から新たな支援策として、高齢であるなど一定の条件を満たす帰国者に対しては、老齢基礎年金等の満額支給に加え、補完する支援給付による「老後の生活支援」、また日本語を学ぶ場の提供と地域になじみ、安定して生活できる環境が構築できるよう「地域生活支援事業」が開始されました。
この地域の支援機関・団体
名古屋市東区にある東海・北陸中国帰国者支援・交流センター(以下「東海・北陸センター」)は、永住帰国した中国帰国者が地域で自立し、生きがいを持って社会参加ができるよう、1世、2世・3世を対象に、日本語学習支援事業、交流事業、相談事業等を行い、日本語の読解や医療用語等を学ぶ日本語教室、パソコン教室、太極拳やはがき絵教室、季節ごとの交流会等を開催しています。東海・北陸センター関係者は、「1世は愛知県に約300人、そのうち名古屋市内に約200人住んでいると言われており、多くは市営・県営住宅に居住している。健康上の理由で通所が難しくなった人もいるが、生活支援が充実し心にゆとりができたことで、これからの生活のために日本語の勉強に力が入っているようだ」と話し、「いまだに帰国者の多くは、社会になじめず、孤立しがち。このセンターは帰国者の交流を深める場所でもあるが、彼らがもっと地域になじめるようサポートしていきたい」と語りました。
日中友好手をつなぐ会名古屋支部、帰国子女生活適応教育センターの代表を務める長谷豊子さんは、50年間に渡りボランティアとして中国帰国者を支援しています。活動を始めた動機について、「私自身、幼い時に孤児となった経験がある。日本政府機関で通訳をしていた1965年頃、調査団の一員として残留邦人が多く住む中国の東北地域を訪問し、その時に見た彼らが置かれている貧しい暮らしに愕然とした」と話し、「『孤児』というひとくくりではなく、目の前にいる一人でも多くの命を救いたかった。特に、子どもたちは日本に帰国させ、しっかりと教育を受けさせなくては」と決心したそうです。長谷さんは、いままでに6名の身元引受人になり、身元が分からない1世の帰国に協力。また、同センターが名古屋市中区で実施する日本語教室は、同市の外国籍児童・生徒に対する事業の一つとなっており、教科や受験勉強に力を入れています。現在小学校1年生から高校2年生までの約50名の外国籍児童生徒が学んでおり、この教室の卒業生で、中国帰国者の2世・3世である現役教師3名もこの教室で教えています。長谷さんは、「子どもは国籍に関係なく、生きるための力を養う教育を受けるべき。厳しく指導しているが、子どもたちが成長した時、生きていてよかったと言われるのが私の幸せ」と語りました。
帰国者の家族
中国残留孤児の野本明喜さん(66歳)と中国出身の妻、琴さん(63歳)。明喜さんは2歳の時両親とともに中国に渡りました。明喜さんの出身地はいまだ判明していません。夫婦は東北部の吉林省に住み、明喜さんは木材加工の仕事をしていました。夫婦は、1988年10月、3人の子ども(当時長男22歳、長女20歳、次女16歳)を伴って来日。埼玉県所沢市にある中国帰国者定着促進センターで4か月間日本語を勉強した後、愛知県豊川市に移り、その直後から明喜さんは飛行機等の部品メーカーで約10年間働き、琴さんは自動車部品メーカーで定年まで働きました。明喜さんは、「子どもが大きくなる前に、一日も早く日本に帰ってきたかった。妻を説得するのに2年かかったが、今では妻も日本が大好きになり、家族とともに帰ってきて本当に良かった」と話します。退職するまで時間的余裕がなかったと言い、現在は夫婦一緒に東海・北陸センターで日本語を勉強しています。
子どもたちは帰国後に結婚し、5人の孫に恵まれましたが、孫たちは中国語があまりできません。明喜さんは、「孫たちとのコミュニケーションが難しい。中国語で話そうとしても、恥ずかしいから嫌だと言われる。とても複雑」と語りました。
母親が中国残留孤児で、2世の小島静香さん(49歳)は、東北部の黒龍江省に住んでいました。両親の来日から1年半後の1993年6月、静香さんは中国出身の夫と2人の息子(当時12歳と9歳)と来日しました。 両親は、母親の出身地である長野県飯田市に住んでいましたが、小島さん家族が名古屋市に住むようになり、両親も同市に移りました。 小島さんは「本当は両親と一緒に来日したかったが、夫を説得するのに時間がかかった」と話します。小島さんは来日後、仕事をしながら日本語を勉強していましたが、今でも日本語の読み書きが難しいと言い、東海・北陸センターで日本語を勉強しています。 両親は家で中国のテレビ番組を見ていることが多いそうです。小島さんは、「出身地は田舎で、農業のほかに産業がないので、これからも日本で住みたい」と話しました。
彼らは戦争の犠牲者として、長年に渡り異国の地に取り残されました。 そして、その歳月は戻ってきません。祖国を思い続け、やっとの思いで帰国した彼らが、「帰ってきてよかった」と思えるよう、そしてこれからの人生を前向きに歩めるよう、今後も多面的なサポートが求められます。 残留邦人の多くが高齢になり、亡くなっていく中、私たちは彼らの歩んできた歴史としっかり向き合い、平和な社会づくりに向け努力していかなくてはなりません。
<参考資料>
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•厚生労働省 http://www.mhlw.go.jp/
•中国帰国者支援・交流センター http://www.sien-center.or.jp/
•「『中国残留孤児』帰国者の人権擁護 国家という集団と個人の人権」 白石惠美(2008年 明石書店)
•「私たち、『何じん』ですか? [中国残留孤児]たちはいま…」 樋口岳大(2008年 高文研)


















